あした編集部がはじめて『南足柄』の森に入った日は、しとしとと小雨が降っていました。よくある雨の表現としての「しとしと」ではなく、木と木、葉っぱと葉っぱのあいだから落ちた雨のしずくが、ひとつひとつ、本当に「しと」「しと」と音を奏でていたように思います。傘をさすほどでもなく、あいにく、という想いもなく、むしろ歓迎されたような気分になったのは、南足柄の森が全身で「自然のみずみずしさ」をもって迎え入れてくれたような気がしたからです。空から落ちて、土へ飛び込む雨粒をながめながら森を歩くと、少しずつこの森のことが好きになっていくような感じします。
あしたの森ワークショップは、そんな森で行われました。
南足柄は、その市域の70%が森と聞きました。はじめは東京の近くに、森がそんなにあるんだと、うれしくなりましたが、南足柄で林業にたずさわるみなさんの話を聞いていると、そうかんたんに喜べる話ではないようです。例えば、町全体の人口の減少や、海外からの安い木材の輸入にともない、林業を営むひとたちが減っているとか、働きにくくなっているとか、あげく、次の世代まで森を見ていく若い人が育っていないとか、主にそういう理由です。つまり、林業を仕事にしても、稼ぎになりにくい構造ができあがってしまっています。そして、高齢化もすすんでいます。昔から林業を営んでいた方々も、もう50や60を越えて、森での力仕事がむずかしい年齢に差し掛かってきています。南足柄の森の木の多くは、戦後、60年以上も前に植えた杉ですので、当時、森をつくるために現役で働いていたひとたちが支えているという状況ではありません。なかなか難しい状況です。
あした、例えば隣町の若い林業家が、南足柄の森に入って、たくさんの仕事をしてくれるかと言ったらそうはいきません。ひともお金もかかります。お金があっても、ひとがいるか。なぜなら日本中の森で同じような問題が起きているからです。
では、「あしたの森」のために何をしなくてはいけないのか?
私たちは自然とそう考えるようになります。森がたくさんあるということが、南足柄にとって、またはそこに訪れるひとたちみんなにとって「魅力」になるようなことを考えなくてはいけません。そのために、できることを話し合って、ひとつひとつ、行動に移せるものから行動に移さないといけません。思い浮かばないかもしれません。思い浮かぶまで考えてるうちに、森がダメになってしまうかもしれません。なぜなら手をかけない森は、次第にダメになっていきます。森が人間のからだだとしたら、そのからだが常に健康であるために、しっかりと支えてあげないといけないのです。
町と寄り添うために十分に健康な森のことを「明るい森」と言います。たくさんの太陽の光、きれいな雨水を受けて、まっすぐのびのびと木が育っていく森です。まっすぐな木は、用材として商品になります。森が壊れないように適度に伐採して、林業を営むための資金になります。森が健康であれば、またそこに木が育っていきます。そこで育まれた木を、次の世代のひとたちが上手に使うことができれば、世代を越えて森が守られます。その時の自分だけ儲かればいいと、たくさんの木を切ってはダメなんです。
明るい森は、太陽が土にもしっかり届く森です。林業家の方によって余計な枝が間伐されている(間引かれている)ため、影があまりできません。そうじゃない森は、雨を余計に吸ってしまったりして、土砂崩れの原因になることがあります。影は、森の動物にとってはいいかもしれませんが、その動物が畑までおりてきて、農作物をダメにしてしまうこともあるようです。
あしたの森プロジェクトが、明日にでもできることはなんだろうと、南足柄の林業家の杉山さんに相談したところ、この「間伐」という作業ならできるのではないかという話をいただきました。たくさんのひとに集まってもらい、森のことを楽しく学んだり感じたりしながら、「間伐」を行っていく。そして、その体験を通じて、森の魅力を感じてもらい、また森に行きたと思ってもらうことができれば、と。ただ、若い人たちが森に入って、枝を切るだけじゃあちょっとつまらないかもしれないから、「大きな木を1本切るところを見せてあげましょう」と、杉山さんからご提案がありました。目の前で60年以上の樹齢の大きな木が切られ土に倒れるその瞬間を、はじめてのワークショップで目の当たりにした時に、森の力強さ、息吹を感じました。これは守らないといけないのだと、私たちの確信に変わって、あしたの森ワークショップがはじまりました。
つづく